碇シンジは学校という場所が嫌いだった。

勉強もスポーツも「普通」から飛び抜けることはなかったし、友達と呼べる人間もいなかったから。

だが今日、学校に向かう彼はとても楽しそうに見えた。もちろんその理由は一つである。

教室の扉を開けると、真っ先に窓際の席に座る蒼髪の少女に視線を向けるシンジ。

レイの姿を確認すると、殆ど誰にも見せたことのない極上の笑みとともに話しかけた。

「綾波、おはよう。」

 

第伍話、学校

 

シンジは挨拶をすると、自分の机に鞄を置いてレイへと近づいていく。

「……おはよう、碇君。」

昨日よりも幾分自然に微笑みながらレイが挨拶を返す。

この時、二人は気付いていなかったが、クラス中の視線が二人に注がれていた。

 

(うっそ〜、綾波さんが笑ったの初めて見たわ。)

(綾波さんってかわいい〜〜(はあと))

(碇君、綾波さんと知り合いなのかしら。)

(ぬぐぅぅ、転校生め。よくも俺の綾波さんに………)

(綾波さんが相手じゃ諦めるしかないかも………)

 

シンジには全くと言っていいほど自覚はなかったが、女子の間で密かに人気があった。

線の細い繊細な顔つきに無駄な脂肪が付いていない体。なにより「綾波を守る」、そう誓った内面の強さが外に滲み出ていた。

もちろんレイもである。こちらに至っては自覚がないどころかそういった感情を理解していなかったが、その類い希な美しさで男子の間ではかなりの人気があった。

その二人がこれまでの二人(特にレイ)からすれば信じられないほど仲良さそうにしているのだ。それを考えるとこの反応も当然と言えば当然である。

だが、そんな教室の中にも数人興味を示さない人間もいた。

その内の一人、クラスの委員長でもある洞木ヒカリは、デジカメでシンジ達を撮っている少年の前に立つと口を開いた。

「相田君、昨日のプリント鈴原に届けてくれた?」

相田と呼ばれた少年-相田ケンスケ-はヒカリを見上げると多少すまなそうな口調で言った。

「ごめん、なんかトウジの家留守みたいでさ」

「相田君、鈴原と仲いいんでしょ。心配じゃないの? 鈴原の事。」

「う〜ん、ケガでもしたのかな。トウジのやつ。」

「え?! この前のロボット騒ぎで? テレビじゃ誰もいなかったって……」

そう言われて突然メガネを光らせると、生き生きとした表情でケンスケは喋りだした。彼には得意の分野のようだ。

「まさか!鷹巣山の爆心地、見たろ? 入間や小松だけじゃなく、三沢や九州の部隊も出撃してるんだ。絶対十人や二十人じゃすまないよ。死人だって……」

彼がそこまで喋った時、教室の扉が乱暴に開かれた。

ヒカリ達が視線を向けると、ジャージ姿の少年の姿。彼らは同時に声をあげた。

「鈴原……」

「トウジ……」

その少年、鈴原トウジは自分の机に鞄を投げ出すと、教室を眺め回した。

「……なんや、随分減ったみたいやなあ。」

「疎開だよ、疎開。…ま、あれだけ派手に街中で戦争されちゃあね。それより二週間も休んじゃってどうしたの、あのロボット騒ぎで巻き添えでもくったの?」

「ああ、妹のやつがな……」

「え…」

トウジが妹思いなのはよく知っている。ケンスケは軽い口調で問いかけた自分に自己嫌悪を感じた。

「……妹のやつが瓦礫の下敷きになってもうて、命は助かったけどずっと入院してんのや。ウチんとこ、おとんもおじいも研究所勤めやろ。今仕事抜けるわけにはいかんしな……。ワイがついてへんと、妹のやつ一人ぼっちになってまうんや。」

そこまで話すと、トウジは語気を荒げた。

「それにしてもあのロボットのパイロットはホンマヘボやな。無茶苦茶腹立つわ。味方が暴れてどないするっちゅうねん!」

狭い教室である。彼らの会話は当然シンジ達にも届いていた。

シンジは無言で立ち上がる。レイは心配そうにシンジを見上げた。

「大丈夫だよ、綾波。謝ってくるだけだから…」

あまり元気の無い顔で言うと、シンジはトウジ達のほうに歩いていく。

確かにシンジはレイのおかげで強くなってはいた、が。怒っている人間に謝りにいくのは誰でも気の進まないものである。

しかもそれが正当な理由による怒りなら尚更だ。

 

「……あの………」

「ん。誰や、お前?」

初めてシンジに気付いたのか、トウジは怪訝そうな顔をした。

躊躇したシンジに代わってケンスケが答えた。

「トウジが休んでる間に転校してきたんだよ。確か碇…碇シンジ君だったよね?」

「…うん、少し話があるんだけど…いいかな?」

「なんや? 言うてみい。」

「ここじゃちょっと……人がいない所で……」

「おお? 構わんけど……」

連れだって席を立つと教室を出ていく三人。

シンジの様子をじっと見つめていたレイであったが、シンジが教室を出ていくのを見るとなんとか自分に聞こえる程度の声で呟いた。

「……碇君……」

胸に自由に動く左手を当てると、もう一度形のいい唇を切なげに動かす。

「……碇君……」

しばらくそうしていたが、突然前をきっと見つめると、彼女にしては最大音量の声で叫んだ。

「…碇君!」

クラス中があっけに取られているのにも構わず、レイは小走りでシンジ達の後を追って教室を出ていった。

この時のレイの仕草が「綾波レイファンクラブ」の直接的な設立動機になったのはまた別の話。

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、何や。転校生。」

シンジ達は屋上に来ていた。この学校はこの時代にしては珍しく生徒が自由に屋上に出入りできるようになっていた。

トウジの問いに、シンジは勇気を出して口を開いた。

「うん……さっき、君達が話してるのが聞こえたんだ……」

「……それで?」

「えっと…あのロボット……エヴァに乗ってたのは僕なんだ…。」

驚きのあまり声も出ないのか、トウジは目を見開いて硬直した。

ケンスケも驚いてはいたのだが、半ば予想していたことだったのでトウジに比べると平静を保っていた。

「………それで……ワシらに何の用や?」

数秒の間をおいて問いかけるトウジ。もの静かな口調が、逆に彼の心の内を表しているように思える。

「妹さんのこと……謝って済むような事じゃないけど……ごめん……」

少し俯いて、しかししっかりとトウジの瞳を見つめてシンジは言った。

 

一瞬後。

 

「……がっはははっ。いい奴やなあお前。黙っとけばわからへんのに、わざわざ謝りに来るなんてなかなか出来る事やない。」

「!?」

今度驚いたのはシンジのほうだった。

今度も半ば、いや、完全に予想していた展開だったため、ケンスケは全く驚いてはいない。むしろ溜息がでんばかりの表情だ。

(そうなんだよなあ、トウジってのはこういう「男らしい」奴なんだよ)

そう思い、苦笑するのみである。だがトウジのそんな部分にケンスケが惹かれているのも事実だった。

「…けどなあ、転校生。いや、シンジと呼ぶで。シンジ、ワイはお前を殴らないかん。殴っとかなやっぱり気がすまへんのや。」

トウジは拳を握りしめると、少し遠くを見るような目をした。

「……うん。もとから覚悟してきたから…殴っていいよ。」

「そうか、ならいくで。」

トウジは肘を腋から前に滑らせると、その場でシンジの胸に拳を押し込んだ。

   ドムッ

思わず耳をふさぎたくなる音が屋上に響く。

シンジは後方に飛ばされると、尻餅をついた。脇に立っていたケンスケがふぅと溜息をつく。

(トウジ…手加減してるし…)

トウジは趣味で八極拳をやっている。本気になればこんなものではないはずだった。

「…まったく、トウジは不器用だからなあ。」

そうケンスケは呟いた。もちろんトウジ達には聞こえないようにである。

  

「大丈夫やったか?シンジ。」

シンジに歩み寄ると、トウジは手をさしのべた。

 

パシッ

 

「え……綾波? なんでここにいるの?」

そう、突然走り寄ってきたレイがトウジの手を払ったのだった。

驚くトウジとケンスケを後目に、レイはシンジに向き直った。

「…碇君、大丈夫?」

言いながらシンジの頬に優しく手をあてる。

シンジはそのひんやりとした感触に仄かな安堵感を覚えたが、再度問いかけた。

「大丈夫だよ。でもなんでここにいるの?」

「碇君が心配だったからついてきたの。」

と、さも当然そうに、レイ。

少し呆れた様子でトウジが声を掛けた。

「綾波。悪いけどシンジと話させてくれんか? まだ用が残って……」

そこまでしか声にならなかった。

レイの紅い瞳のなかに、氷のような怒りの炎が煌めいているのに気づいたからだ。

「駄目……あなたは碇君を殴ったわ……」

そう言うとトウジの目の前に立ち上がり、絶対零度の瞳でトウジを睨み付ける。

「あ、綾波。ちっ違うんやで。男には男のケジメっちゅうもんがあるんや。」

レイの剣幕に気圧されたのか、わけの判らない言い訳を口走るトウジ。

だがレイはその言葉を完全に無視すると、トウジに向かって一歩を踏み出した。今にも平手が飛んできそうな勢いだ。

無意識のうちにトウジが身構える。

シンジが見かねて声を掛けた。

「いいんだよ、綾波。僕が殴っていいって言ったんだから。」

振り向くレイ。今やその瞳には心配の色しか読みとることができない。

シンジの視線まで姿勢を下げると不安げな様子で問いかける。

「……本当にいいの? 碇君?」

「うん、だから鈴原君と仲直りして。」

「碇君がそう言うならそうする。」

一方トウジとケンスケは、眼前の光景のあまりの異常さに完全に固まっていた。

レイのあまりの変わり様に、思考がついていかないのである。

顔面を硬直させたまま、ケンスケがかろうじて口を開いた。

「い、碇……お前って奴は……」

「え……? あっいや、ち、違うんだ。」

何が違うのか、とにかくシンジは慌てて否定する。

「そっそう言えば鈴原君。まだ何か言うことがあるんじゃなかったっけ。」

「お、おお。ワイのコトはトウジでええで。シンジ、話つうのはワイを殴ってほしいっちゅうことや。」

「えっ?!」

シンジは思わず声をあげた。

「ワイ、シンジのコト悪うないってわかってたのに殴ってもうたからな。ワイも殴ってもらわんと気がすまんのや。」

「でも……」

理屈はなんとなくわかったが、だからといって殴れるものでもない。

シンジが躊躇していると、ケンスケが声をかけた。

「殴ってやりなよ。こういう恥ずかしい奴なんだよ、トウジは。」

「う、うん……そういう事なら……」

深呼吸をするシンジ。

目を開くと、遠慮がちにステップを踏み、トウジの胸に拳を叩きこんだ。

この二週間、一日も休まずに格闘訓練を受けてきたシンジの拳はそれなりに重い。

たった二週間ではあるが、少しはやる気と努力の成果が出ているようだった。

  ドンッ

結構派手に倒れたトウジはしかしすぐに頭を起こした。

「手加減はせんでええ、もう一度や。」

シンジは困ったように笑った。

「トウジも手加減したんでしょ? これでおあいこだよ。」

「…なんや、わかってたんか。」

トウジはバツが悪そうに顔を背けた。だが、シンジと同様表情は緩んでいる。

何か独特の雰囲気が漂うが、一人冷静なレイがシンジの裾を引っ張った。

「…碇君、非常召集。一緒に行きましょ…」

「え、非常召集?」

レイはこくんと頷いた。

そのやりとりを見ていたケンスケがシンジに問いかける。

「碇…? 綾波も何かネルフと関係が?」

「あ、うん。綾波もパイロットなんだ。」

「そうか、それでそんなに仲が良かったのか。驚いたよ、綾波の笑った顔なんて初めて見たから、さ。」

少し笑って、ケンスケはトウジに目配せする。

トウジはよっこらせと起きあがると、尻をはたきながらケンスケに続いた。

「やっぱパイロット同士、何度も死線をくぐってると自然とそうなるんやないか。ホンマ羨ましいやっちゃ。」

流石親友同士、息はぴったりだ。

「な、何言ってるんだよ。二人とも。僕達もう行かなきゃ……じゃ!」

真っ赤になって階段を下りていくシンジとそのシンジのシャツをしっかり握って後についていくレイ。

二人を見送りながらケンスケは呟いた。

「……本当に羨ましいな………」

「……まったくや。」

 

街には使徒襲来を告げるサイレンが鳴り響いていた。

 

 

 

 

 


2002.3/12 加筆修正(う〜む、やっぱりシンジ君は強いまま……。まぁ、主人公だし……(^^;)

 

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